理科(地学)は何を目指し、教育危機にいかに対応すべきか

山賀 進

(1) 中等教育は教養主義で

 私は高校までは、「教養主義」(理科至上主義ではなく)がいいのではないかと思っています。そこで幅広い知識を身につけ、いろいろな考え方を知り、さらに自分でも考える力を身につけてもらう、ようするに「豊かな人間」になってもらいたいということです。

 だがしかし、一方では文部省指導要領における、中学での各教科の標準時間数と内容の削減、高校での必修科目の最低単位数と卒業に必要な最低総単位数の削減があります。これは多くの生徒にとっては、非常に限られた教科・科目の、しかも時間数ばかりではなく、内容までが削減された範囲での履修で終わってしまうことを意味します。

 またもう一方では、高校の理科の物理・科学・生物・地学は、それぞれI、IIの両方をやるとすると、従来比べてさほど変わっていないばかりか、中学で削減されたものが上がってくるものもあるために、かえって増えているといってもいいでしょう。これは社会科でも同じだと思います。

 つまり、限られた総単位数(総授業時間数)のなかでこれに対応するには、文系の生徒は理系の科目をあまり履修できない、理系の生徒は文系の科目をあまり履修できないような、教科課程(カリキュラム)を作らなくてはなりません。つまり、文系・理系の区別を厳密にして、そしてさらにその選択の時期を早めなくてはならないのです。私は、“文系的常識”のない科学者・技術者・医者が誕生することを恐れています。

 いずれにせよ、こうしたことによって高校までの“教養主義的教育”は非常に難しいものになりつつあるのが現実です。

 

(2) 理科教育の二つの目標

 私は、高校までの教育は、進学や就職、あるいは将来の職業に直接結びつくためのものだけであってはならず、もっとそれ以前の“人間としての素養”を育むべきものだと思います。時代錯誤を覚悟であえて書けば、高校までの間に、仲間と哲学を論じ、芸術を語り、異性を思ってもらいたいわけです。

 そうした意味で私が考えている理科教育の目標は、まず第一に「われわれは何者で、どこから来て、どこへ行こうとしているのか。」という素朴で、しかも根元的な問いに、現代の科学がどこまで答えられるようになったかを、生徒に伝えることです。

 もう一つは、現代社会において、科学が大きな役割を占めているという客観的事実を認識し、その意味を考えてもらうということです。理科は、例えば1999年の核燃料工場の臨界事故や、二酸化炭素増加による地球温暖化問題などを考える際の、科学的な側面での手がかりを与える教科だと思います。

 

(3) 地学教育の意義と目的

 地学はまさに現代の宇宙観・地球観・生命観を伝える科目です。さらにいえば、基本的に1930年代までの成果で終わっている高校までの物理・化学と違い、まさに現在進行形の科学の話を、ふだんの授業でもふつうに話すことができます。

 地学では環境問題も扱いますが、いわゆる“環境汚染”だけではなく、もう少しグローバルな話もしています。実際の自然は、正負のフィードバックがさまざまに複雑に絡み合っているので、まだ本当のことはよくわかっていない、ということをわかってもらいたいのです。このような自然の見方は、自然をできるだけ単純な要素へと還元しようとする高校までの物理・化学とは対極的なものだと思います。自然を総合的・全体的にとらえるという科学の見方の存在を伝えることも重要だと思っています。

 また、環境汚染や重大事故では、まさに現代社会における科学の意味が問われます。授業では、水俣病などの古典的なものから、核燃料工場での臨界事故までも言及しています。

 もうひとつ地学には、日本に住むかぎりは避けることができない、地震・火山についての基本的理解をつくる、つまり災害を未然に防ぎ、パニックの原因をつくらないための基礎知識を与えるという重要な課題もあります。

 

(4) 理科教育の危機にいかに対応すべきか

 もし“理科教育の危機”が本当ならば、それは別に理科に限るものではないでしょう。いわゆる“理科教育の危機”“教育の危機”は、社会のあり方と、それが敏感に反映されている生徒の価値観や、彼らが必要としているものが昔とは大きく変わっているのに、学校がそれに対応できなくなっているにすぎない問題ではないかとも思っています。

 これに対応するためには、小学校から大学まで、また各教科・科目が別々にそれぞれの立場だけから考え・意見を出すのではなく、もっと総合的に考えなくてはならないでしょう。そのときに理科は、ますますその目標を鮮明にしなくてはならないと思います。

 

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